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2005年11月の9件の記事

境川流域散歩・木曾八坂神社

ずいぶん久しぶりに神社の写真を撮影してきました。
 この神社には何度も訪問したのですが、由緒等がわからず掲載していませんでした。そこで町田市の市政情報課にどんな史料を探せばよいかをアドバイスを貰い町田市史により若干の由緒がわかったのでここに掲載します。

  寛政元年(1789)に大谷家の守護神として境川に奉斎したのであり、滝ノ沢、中原、境川の産土神社である。
 例祭日は毎年七月十五日である。
 境内坪数160坪。町田市木曽町四一三番地に鎮座している。

 本殿の左側には他社が3社勧進されていますが、きちんと確認できたのは、御嶽山大口真神社のみでした。他には本殿の屋根の紋や鳥居の写真を撮ってみました。紋や鳥居については 良く知らないのでいずれ調べたいと思います。

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当選!

 以前応募した町田市中央図書館主催の講演会の抽選結果通知が今日届き当選しました。
 今度閉鎖してしまう田端遺跡に関する講演で、来週開催されるということなので楽しみに当日を待ちたいと思います。

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語られざる譚詩曲/榊一郎

 この本は「棄てプリ」シリーズの最終巻となる短編集です。著者の作品は概ね好きですが、その中で2番目に好きな作品です。ちなみに一番は、「ドラゴンズ・ウィル」又は「英雄衍義」です。
 短編が4本有りますが、一編は再録なのでそれを除くと「見つめる者」「剣の意味」がいいですね。
 「見つめる者」は題名どうり第三者からみたカスール兄弟を描いています。この作品を見ると守護者のみで廃棄王女を守ってきたわけではないと再認識した作品です。
 「剣の意味」は意外と長い作品ですが、「シャノン×ゼフィリス」のラブラブ話です。後書きによると第一稿よりもラブラブ話になったそうで満足です。この続きを同人ででいいから書いてくれないかなと思いました。
 ところで、後書きで「軽小説屋」と名乗っているけど、どういう意味に使っているのかといつも思います。軽い小説=読者受けのする作品(売れる作品)を書いているという意味なのか、逆に軽い小説しか書けないと卑下しているのか、それとも別の意味があるのかと後書きを読むたびに考え込んでしまいます。

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お茶

 結石・胆石に効くお茶があると聞いたので購入してみました。飲み方を読むと一日3袋必要とあります。それでは4日分しか持たないので、少し薄めて飲んでみようかなと思います。だって、一箱3,900円もするんですもん。薄給の身には厳しいっす。
  PS. 使い捨てカイロが4つ付いてきました。

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自分への連絡事項

 体調が悪くPC前に座るのもつらい状態が続いているが、その間に読んだ本は多いので、復帰しだい感想を書きたいですね。

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ザ・和家具シリーズ

 100円ショップに行ったところ、ミニチュアの和式家具を見つけたのでついつい買い求めてしまいました。少しずつ集めようかな。

①「飾り棚」
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②「茶箪笥」
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映画鑑賞/まだまだあぶない刑事

 「まだまだあぶない刑事」を見てきました。最初は、他の映画を見ようと思っていたのですが上映時間が合いませんでしたので変わりに見てきました。
 感想ですが、何も考えずに見られる作品でした。
 ただコメディタッチの場面でしつこいのが気になったくらいです。
 エンドロールで、舘ひろし専用のデザイナーの名前があってさすがダンディだなーと思いました。

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図書館

 今日は銀行へ寄ったついでに、町田市の中央図書館へ行ってきました。町田市に転入してから2年半ほど経ってようやっと行ってきました。現さるびあ図書館には、小さい頃良く行っていたのですけど、なんとなく敷居が高く感じていきそびれていたのです。
 さて図書館の内部はフロアがかなり低く目的の本をあらかじめ決めておかないと疲れるなあと思いました。
 今回は、「町田市史」「白川静全集4」「細川重賢/童門冬二」を借りてきました。これからゆっくり読もうと思います。

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「介子推」宮城谷昌光著

 「介子推」を再読しましたので感想を記したいと思います。
 この本は宮城谷氏著作の「重耳」と「沙中の回廊」をつなぐ物語です。「重耳」の作中で晋に帰還する前に黄河で股肱の臣の一人である狐偃が壁を河中に投げ入れて誓った行動に対する批判をした賤臣として介子推(子は尊称)は登場します。

 彼は行動を笑い
 「これが笑わずにいられようか。公子の開運は、天がおこなったことであるのに、咎犯(狐偃)は自分の功績だと訴え、とりひきをおこなった。こんな恥ずかしいことはあるまい。わたしは咎犯と行動をともにするのがいやになった」 
と発言しています。
 この後に介子推は、緜上に賞を求めずに隠れますが、その際にも発言しています。母親がなぜ賞を求めぬのかと問われて、
 「人を批判しておきながら、その人とおなじことをやっては、これ以上の罪はありません。また、怨みを述べたかぎり、食禄はいただけません」 
 と答えます。それに対しその考えを上に知らせてはと再び問うと、
 「ことばは身のかざりです。わが身を隠そうとするのに、どうしてことばのかざりが要りましょうか。いうことは、あらわれたいということにほかにりません」 
 と発言し母親とともに隠れました。言葉は身の飾りと言う発言は、至言というべきだと思います。後に重耳の知るところとなり探索されますが、介子推は終に現われず重耳は自分の過ちを表すために緜上を領地として賞しました。

 この一連の発言は春秋左氏伝で読んで知っていましたが、介子推の出自や介子推の性格には清尚さだけではなく顕揚欲もあったというのが重要なところではないかと思います。それが公子(重耳)と共に諸国を巡ったことで、後に神格化されるにふさしい人格になったのではと読後に思いました。

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