カテゴリー「旅行・地域」の20件の記事

境川流域散策「淡嶋神社」

 昨日は急に思い立って、散歩に出かけることに・・・。
 取り敢えず「境川流域散歩絵図」とデジカメを持って、歩いて出発です。
 歩きながら地図で、目的地を淡嶋神社に定めました。

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 忠生高校を過ぎてしばらく行くと、「長峰製茶」の産地直売店なるお店を見つけたので寄ってみることに。
 試飲した「ほのか」という銘柄のお茶と、茶筒を買い求めて、お店を後に。
 店内には喫茶店?も併設されていたので、次回はそちらでゆっくり休もうかな。

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境川流域散策「山王日枝神社 その3」

 連続記事第三弾です。根岸橋を離れて宮前橋を淵野辺駅方面に橋を渡り、150M程行くと目的の山王日枝神社に着きました。昼過ぎでしたので境内で簡単な昼食を取った後、境内を散策しました。浄域は広く人っ子一人居ませんでしたが、ゆったりとした心持に為れる神社でした。
 説明文が建っていましたので、以下に引用します。

祭神 大山昨神 別称:山末之大主神、鳴鏑神、日吉山王権現
             神格:山の神、比叡山の地主神、天台蜜教の護法神
    
飯綱大神 
    大鳥連祖神

 山王日枝神社は第94代後二條天皇徳治二年(1307年)大将軍久明親王執権北条貞時僧となり、淵野辺に遊歴して官吏の善悪賞罰を正す。
 その時各所より溝流れ入り池となり大蛇現れて人民を食せし故、貞時溝内の高山に山王大権現を祈願し、淵野辺伊賀守義博に命じて大蛇を打ち殺す。住民大いに喜び山王大権現を渕大主水有主神として祈願。
 天文11年8月27日北条氏康関東平定の為、大友義家山王大権現を祈願所とする。其の悪病流行の時、伊賀権現大酉大明神の御告げにより知行岡野孫一郎の命を受け、氏子一同8月27日及び11月酉の日に、五穀豊穣氏子安全福作永年を祈る。
 日枝神社社殿は、天和2年・元禄12年・寛保元年・文化3年等、度々の修復をして現在の社殿は昭和40年に再建したものです。

(注)斜字は、新紀元社発行の「八百万の神々」より補記したものです。

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境川流域散策「山王日枝神社 その2」

 昨日の記事の第二段です。境川流域散策絵図を見ながら進んでいったのですが、根岸橋の傍らに絵図には載っていない道祖神が鎮座して居ましたので、撮影してみました。
 左端の道祖神の年月日は天保六年となっていました。天保六年(1835年)にどんなことがあったかWikpediaで調べたら、福沢諭吉と土方歳三の誕生年でした。

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境川流域散策「山王日枝神社 その1」

 先週金曜日(5/4)に境川サイクリングロードを境橋から宮前橋まで散歩してきました。周辺には結構見るべき所が在りそうでしたが、今回は宮前橋付近に在る山王日枝神社のみを目的としてみました。
 途中、中里橋・根岸橋にも寄りましたので、3回に記事にしたいと思います。

中里橋付近に「縁切り榎と別れ橋」という史跡が在りましたので、寄って見ました。この史跡は説明文によると、

「縁切り榎と別れ橋(中里橋)」
 淵辺義博についての伝説では、護良親王を殺さずこっそり竜像寺の裏山に隠した義博主従は、この榎の下で妻子と縁を切り境川の橋の上で別れを告げて親王と奥州石巻(宮城県)へ落ち延びたという。 「大野北公民館」

「淵辺伊賀守義博の伝承」
 淵辺義博は南北朝時代の武士で淵野辺村の地頭であった。建武二年(1335)足利直義(尊氏の弟)の主命により護良親王(後醍醐天皇第一皇子)を殺害の後駿河国手越河原の戦いで討ち死にしたという。「大野北公民館」

とのことでした。又、榎の隣には道祖神も祀られていました。

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参照記事 淵辺義博 淵野辺紹介/ウェブリブログ

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境川流域散策「秋葉神社」

 昨日の記事の続きです。
 福昌寺を訪れた後に、隣にある秋葉神社を訪れました。小さな社ですが、境内には「縁結びの欅」が立っています。神社の由緒を記した石碑があったので、デジカメで撮影しましたが、うまく撮れませんでしたので町田市史より引用します。

秋葉神社由緒
 貞享二年(1685)、遠江の秋葉山三尺坊(秋葉神社)よりの勧請である。火の神は家人の命を守る神といわれ神聖視される一方に、火が荒れるといって火災の恐れを防止をするために鎮火祭を行い、火伏せの神を奉ったのである。
 祭神は秋葉神(火結神)を奉斎してある。例祭日は毎年四月三日である。湯花の神事を行っている。
 境内坪数は三十六坪。町田市木曽町二二二四番地に鎮座している。

本殿 縁結びの欅 灯篭&狛犬

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境川流域散策「木曽山 福昌寺」

 ここ数日、天気が良かったので(今日はあれですが)市が発行している「境川流域散策絵図」を覘いていたら、福昌寺というのが比較的近くに所在していましたので、散歩がてら寄ってきました。
 福昌寺は檀家も多そうで、寺域には寄進による多くの石仏等が立っています。又、寺域中心部には、市名木百選に選ばれたケヤキの木が立っていました。境内には子供が遊んでいたり、お婆さんたちが境内の清掃をしていたりして、中々に微笑ましい気持ちでした。
 帰りは町田街道沿いに帰りましたが、100円ショップを見つけたので、得をしたなと感じつつ家に帰りました。福昌寺の隣に在る秋葉神社も訪れましたが、その報告は明日に。

福昌寺縁起
山号を木曽山と称し曹洞宗に属す。永禄十一年(1568年)二月高洲快天により開創され相州津久井郡功雲寺第十世柳山洞繁大和尚を請して開山す。釈迦牟尼佛を本尊とし高祖・太祖両大師の禅戒一如修燈不二の正法に随順す。風土記稿によると元和三年三月二十一日、徳川家康公駿府久能山より日光東照宮へ改葬の砌り霊柩の休息所たり。明治四十年十二月火災により創建時の伽藍は烏有に帰す。その後再建されて、現在に至る。境内地一一九二坪余也。

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町田市内神社散歩「つくしの杉山神社」後編

 前編を書いて以来、後編を書くのを忘れていたのを思い出したので、間が開いてしまいましたが、続きを。
 神社を訪れてまず思ったのは、「手水舎に水が張られていない」ということでした。ご丁寧に網まで張ってありますし、あれでは参詣者が手を清められないのでは・・・と感じました。
 次に、社の沿革を知ろうと由緒が書かれた立て札をみると、祭神と、再建の年月のみがずらーと書かれているのみでした。そこで社務所を訪れましたが誰も居ませんでした。仕方が無く御神籤でもとやって見た所、なんと生まれて初めて大吉が出ましたよ!
 その後は見晴らしも良い高台に在るので、景色をゆっくり眺めつつ休憩を取った後に、家路に着きました。
 わかる範囲での、由緒を書いときます。
  祭神 日本武尊
      事代主命(三嶋大明神)
      大山咋命(山王大権現)
  創設年代は、明らかならず。再建年代は光格天皇在世中の文化四(1807)年に再建。

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町田市内神社散歩「つくしの杉山神社」前編

 秋になって涼しくなってきたので(最近涼しすぎますが・・・)、市内の神社を見て廻ろうと思い立ちました。その第一弾として、つくしの駅近くににある杉山神社に行ってきました。
 まずは、つくしの駅に降り立ち商店街を抜けて行きます。
店前に民具の置かれたインド料理専門店が在り、興味が惹かれましたが、まずは先を急ぎます。
商店街を抜けると遊歩道になっています。 
つくしの駅周辺は、雑然として居らず歩いていて気持ちいい町並みでした。
 こういう町並みを作るには、遊歩道にある碑を見て、「つくし野の街作りに関する申し合わせ事項」が必要なのだなと感じました。
 前編はここまでとして続きは、後日。

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墓参り

 昨日は午後から両親と父方祖母の墓参りに行って来ました。場所は新宿より大江戸線で牛込柳町を降りて5分程度にある宗円寺です。
 境内の広さは、そこそこ在りますが以前は現在の倍以上あったそうです。以前騒動とやらで境内が縮小されたそうです。
 墓参りを終了した後、父親との会話で寺のすぐ裏で育ったという話が出たので、訪れて見ました。狭い路地を入っていくと突き当たりに在りました。住んでいた頃と若干の建物が違いつつもその当時の雰囲気を残していました(井戸・建物など)。自分は都内に半世紀以上前の雰囲気を残したところが在ることに、感じ入るものが在りました。その後、父親と同年の友達がやっているという蕎麦屋で、おいしい蕎麦をいただいて帰宅しました。
 今回は墓参りだけでは無くて、親が生まれ育った地を観ることが出来て有意義な一日を過ごすことが出来たと思います。

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大ヶ谷戸付近/散策

_001  大ヶ谷戸バス停の横に庚申塔がありました。なかなか立派なものです。

 




_004国道246号に架かっている銀河歩道橋沿いにある、遊歩道にあった近代水道創設時の配管です。説明文によれば、
 この鉄管は、1887(明治20)年日本で最初の近代水道が横浜に創設された時、英国から輸入されて当時(津久井郡三井村~横浜村までの44km)に布設された18インチ(460㎜)の鉄管です。

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 こちらも、遊歩道に設置(展示?)されていた獅子頭共用栓です。説明文によると、
 この獅子頭共用栓は、1886(明治19)年頃英国から600基が輸入され、戦前まで横浜水道のシンボルであった「ライオンの水道」を復元したもので、横浜市より譲り受けたものです。横浜水道創設時の1887(明治20)年から10年間、市民への給水は複数の人が共同で使用する共用栓が主体で、獅子頭共用栓は道路に設置されていました。

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 バス停近くの床屋の看板です。ちょっと面白いものでしたので撮影して見ました。

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